東洋文庫所蔵(山形細谷家旧蔵)の「大明地理之図」について
「大明地理之図」は、明代の中国を中心に、朝鮮・日本・琉球・安南などを彩色で描いた巨大な東アジア絵図である。原図の存在は明らかになっていないが、現存するいくつかの模写図の特徴から、おそらく江戸時代前期に中国から将来された地図や地理書を参考にしつつ日本で作製され、17世紀後半以降、複数の模写図が作製され始めたと想定される。そのうち東洋文庫所蔵の「大明地理之図」は、山形城下で代々医業を営む家系に生まれた細矢玄俊(1786~1849)が、京都滞在中の文化11年(1814)に仁和寺で模写したものである。のちの帰郷にともない、玄俊が京都で購入した医学書や茶道・香道の道具類、骨董品とともに山形に将来され、以来細谷家(明治期に細矢から改める)に伝来してきた。そして平成26年(2014)、細谷家当主であった細谷良夫氏(1935~2021、東洋文庫研究員・東北学院大学名誉教授[当時])により東洋文庫に寄贈された。
細谷家に伝わる系譜、および古文書群(「山形細谷家文書」、東北学院大学東北文化研究所所蔵)によると、その「遠祖」は出羽守斯波兼頼(1315~79)とされ、最上義光の家臣となった良俊(?~1643)が「大祖先」とされる。この良俊が弓矢に長じていたため、世人は彼を「矢氏」と呼んだが、謙遜して「細矢」を名のるようになった。最上氏は元和8年(1622)に近江国大森に改易されたが、細矢家は山形城下にとどまって酒造業を始めた。そして「医業之祖」と称される玄沢(1691~1733)の代より医業の道に入り、山形藩の「御用医」などをつとめる家系となった。その医業六世にあたる玄俊は、文化3年(1806)に医学を修めるため上洛し、翌年より仁和寺家臣となるも、文政2年(1819)には山形に帰郷して家督・家業を継いだ。多芸多才の人物で、かつ蔵書家であったとされる。
この旧細谷家所蔵、現東洋文庫所蔵の「大明地理之図」には、「文化十一年甲戌孟春五日細矢惟直摸冩之」という一文と、「玄俊」「敬義堂圖書印」「惟直」「字伯温」という、すべて玄俊を指す四つの印記が残されており、玄俊本人が京都滞在中に本図を模写したことは疑いない。形状は軸装四幅に仕立てられ、一幅あたりの大きさは縦約345cm×横約90cm、東から西に第一図・第二図・第三図・第四図となっている。海上に浮かぶ帆船には和船と唐船の別があり、それぞれ乗船者の様相は異なる。陸地は区域ごとに色分けされ、明代の主要な地域や都市の名称だけでなく、古地名や名所旧跡が細かく描き込まれ、随所に漢文の註記が書き加えられている。現存する「大明地理之図」の模写図のなかで、本図はその精巧さと保存状態からいって群を抜く逸品である。
「大明地理之図」の作製および模写の過程は不明な点が多く、今後の検証にゆだねねばならないが、第三図中央部に「興都」が見出せることは、地図の作製年代を推定する材料となる。すなわち、安陸州が置かれていたこの地(現湖北省鍾祥市)に、弘治7年(1494)に興王府が就藩した。その興王府より第12代皇帝・嘉靖帝(在位1521~66)が出たため、即位後の嘉靖10年(1531)に興都と命名された。ゆえに「大明地理之図」の原図作製は興都の成立以降となる。
本図の第一図にある「例記」の冒頭には「此圖以禹貢一統志圖書編等考焉」とあり、作製において『禹貢』『大明一統志』『図書編』等の漢籍地理書が参考にされたことがわかる。この文言は、成立が早い東京大学東洋文化研究所所蔵「大明地理之図」(元禄3年[1690]模写、以下「東大版」)にも見られ、実際にこれら中国地理書に由来する註記を確認できる。ところが、京都大学文学研究科図書館所蔵「大明地理之図」(以下「京大版」)は、成立年代不明ながらも、上記一文の個所が「此啚大明秘蔵焉而以世罕也」(「この図は明朝が秘蔵していたもので、世に出まわっていなかった」)となっている。また京大版では絵図中に註記が少なく、広東と安南の位置が逆になっている。地名の位置比定にも誤りが見られ、「大明秘蔵」という宣伝文句は極めて疑わしいが、東大版・東洋文庫版にそれらの誤りは反映していない。とくに注目すべきは琉球の形状である。京大版に描かれる「大琉球」が単なる島の絵図に過ぎないのに対して、東大版・東洋文庫版の「琉球国」には「中山王城」などの建造物が描かれ、島の形態も異なる。後者は鄭若曾(1503~70)が著した『琉球図説』所載の「琉球国図」に類似する特長をもっており、参考にされた可能性がある。京大版が原図に近い特徴を残しているとすれば、以上の相違点は、「大明地理之図」の原図作製以降、日本における模写過程で考証補正と情報添加がなされたことを示唆する。東大版に模写者の筆で「模写之且補之」(「それを模写し、かつ補った」)と付記されていることは、その傍証たりえよう。仮に前者をA系統、後者をB系統とすれば、東洋文庫版はB系統に属する模写図となる。
「大明地理之図」は、作製された明の時代だけではなく、様々な時代の情報がつまった一種の歴史地図である。また、九州北部と寧波の間に朱線が引かれ、髷を結う和装男性の乗る和船がその上をはしる。この線は室町時代の日明貿易(勘合貿易)の主要ルートと重なるが、周知のように、江戸時代に入ると日本人の海外渡航は禁止された。和船に乗る男性は大陸を指さし、洋々たる前途を見据えている。あたかもその先にある未知・未踏の世界への憧憬が仄示されているかのようである。玄俊をはじめ、「鎖国」の時代に生きた知識人の人々は、「大明地理之図」を模写することで、大陸の歴史と地理を理解しようとしたのかもしれない。「大明地理之図」は、江戸時代の日本における地図作製、および東アジア認識の一端を伝える貴重な資料といえよう。
東洋文庫研究員・東北学院大学教授 小沼孝博
【参考文献】
細谷良夫(2015)「「大明地理之圖」を模写した細矢玄俊と細矢(細谷)家」東洋文庫編『アジア学の宝庫、東洋文庫――東洋学の資料と研究』159-177頁、勉誠出版.
東北学院大学文学部歴史学科編(2020)『大学で学ぶ東北の歴史』吉川弘文館[特に「Ⅲ近世 04. 人・モノ・文化の交流」].
鈴木幸彦・榎森進(1998)「山形横町細谷家文書:解題と目録」『東北学院大学東北文化研究所紀要』30号、93-152頁